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第一話 四
時間になったというのに、ステージの上には主役が現れる気配が全く無かった。観客達は次第にどよめき始めた。
「みんな、遅れてすまねぇ!」
ステージの袖からケンと朋之が現れた。待ってましたと観客は、二人に歓声を送った。
「今日はサービスだ!俺のテクを見逃すなよ!」
ケンは朋之に合図をした。朋之が鍵盤を押すと、シンセサイザーはパーカッションの演奏を開始する。陽気なノリの旋律が会場全体に運ばれた。手拍子に押されベースの音は流れるように奏でられる。十五分とケンは読んでいた。
風弥の支度を終らせるための時間稼ぎだった。観客の意識がケンに集中したのを見計らい、朋之はステージを抜け出した。
朋之が控え室に戻ると元希が着替えをしている最中だった。
「ケンの奴、上手くやっているみたいだな」
青色の着物に金の襷をかけながら、元希が呟いた。
「ケンさんはこういうアドリブ得意ですから」
ケンの音楽的センスはメンバーの中でもずば抜けていた。それはメンバー全員が認めている事だった。事実、『花鳥風月』の楽曲は殆ど彼が手掛けているのだ。
朋之は呼吸を整えてから、居場所が無くて壁際に立ちつくしている風弥の元に向かった。
「風弥君、時間がないから少し急ぐよ」
朋之は風弥にイスに座るようにと促す。風弥は慌ててパイプ椅子に腰掛けた。
手荷物から整髪料を取り出し、朋之は慣れた手つきで風弥の茶色い髪の毛を遊ばせる。
「・・・なんか・・・」
自分の仕度が終わり、風弥の様子を見に来た元希が言葉を濁した。
普段風弥は、特に髪型をセットする訳でもない。そのため元希は、いつもと違う雰囲気の風弥に驚いていた。
「・・・本当に別人みたいだな」
人の印象という物は髪型一つでこんなにも違う物なのだ、と元希は改めて実感した。
「なんだよ!見るなって!」
風弥が恥ずかしそうに顔を真っ赤に染める。
「風弥君、これ着て」
朋之が深緑色の布を差し出した。風弥が受け取って広げると、裾を擦るくらいの長さの着物だった。ここにはいない智隼の衣装だ。
「智隼のだから君には大分大きいけど、調節すれば何とか着られると思うんだ」
風弥の手にある智隼の衣装はとても重かった。その重みは衣装そのものの重さではなく、衣装に詰まっている『気持ち』だった。
さっきは『やる!』なんて簡単に言ったけど、本当に智隼さんの代わりが自分でいいのだろうか。
風弥は急に不安になってきた。『花鳥風月』のライヴは何度も観ている。とにかく凄い、智隼はとびきりカッコよかった。観客を引き込む魔法の様な声なのだ。
「・・・俺、やめる!」
「え?」
朋之は自分の耳を疑った。着付け途中の姿勢のまま固まった。
「・・・今なんて・・・?」
「やっぱり俺には智隼さんの代わりなんて出来ないよ!」
風弥の心の奥底に芽生えた物は恐怖だった。智隼の歌を楽しみにしている人たちに、自分の歌なんか聞かせられない、歌えない。風弥はそう思っていた。
「は?誰がいつ智隼の代わりをしろなんて言った?」
元希は風弥と目線を合わせるため、腰を落とした。風弥の目の前には今までに無いくらいに、近い距離に元希の目があった。
元希は笑っていた。同時に少し呆れもしていた。
「俺は風弥に『ヴォーカルをやって欲しい』と言ったんだ。勘違いするなよ」
声をたてて笑いながら、元希は風弥の肩をニ、三回叩いた。
「でも俺・・・やっぱりダメだよ・・・」
元希の励ましは嬉しかったし、幾分気持ちも楽になった。しかし、風弥はまだステージに立つのが怖かった。
「大勢の人の前で歌うなんてやったことないし・・・」
風弥は視線を床に落とし、呟く。
「・・・じゃあ、これならどうだ!」
元希は飾りとして身につけていたサングラスを、風弥にかけた。風弥の視界が青一色に変わる。瞳に入ってくる光が少なくなり風弥の瞳孔がゆっくりと大きくなっていった。
「こうすれば、お前の顔は観客には見えない。さしずめ謎のヴォーカル『フウ』ってなところだろう」
元希は屈託無く笑った。そして再び、真剣な眼差しで風弥を見つめる。
「風弥は風弥でいい。出来る事をやればいい。答えは自然と出てくるさ・・・」
元希は風弥―フウの頬を軽く撫でた。
「・・・フウ・・・」
フウは新しい自分の名前を反芻する。歌える―そんな気が胸の奥底からこみ上げてきた。
「朋之、あとどれくらいかかる?」
朋之はフウの手首にリストバンドを通した。
「・・・これで終わりです」
今までと違う自分。こそばゆいというか、照れくさいというか、フウの頭の中はごちゃ混ぜだった。
「お前の方は大丈夫か?」
元希は朋之に顔を向けた。朋之は一瞬、呆気に取られた表情を見せたが、すぐさまにっこりと微笑み返した。
「・・・何とかしてみせますよ」
ヴォーカルは見つかった。だが、そう運良くギターの代役までは見つからなかった。智隼のギターの穴埋めはシンセサイザー担当の朋之が引き受けたのだ。多種多様の音を作り出す事が出来るシンセサイザーと、朋之のセンスがあってこその選択肢だった。
「智隼のパートなら、簡単ですから。すべて頭に入っていますよ」
意図的か天然かは判別し難いが、自信があると言う事は確かだ。
「よし、行くぞ!」
元希はフウと朋之を促した。その顔はまさしく『花鳥風月』のリーダー元希として、フウの目に映った。
「はい!」
朋之は嬉しそうに笑う。
「・・・来い、フウ!」
「・・・うん!」
フウは二人の後について、ステージへと向かった。
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