第一話 弐

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第一話 弐





部屋の時計が七時半を指した。風弥は玄関でお気に入りの靴を引っ張りだしている最中だ。
「気を付けなさいよ」
母親の美弥が心配で、様子を見に来た。
「帰りは元希と一緒だから、平気だよ」
玄関で座って靴をはきながら、風弥は明るい声で言う。
「・・・そうなの、だったらいいけど・・・」
美弥は元希に絶対の信頼を置いている。そんな訳で、美弥の顔からは不安の色がきれいさっぱり消えていた。
風弥はポケットの中身を確認すると、立ち上がった。
「それじゃあ、行ってくる」
風弥は昨日と同じように玄関を開けた。外は冷たい風が吹きつけている。
外に出た風弥が一番はじめに目にしたのは、宝石のように輝く夜の空だった。

乗ってから三十分程で、電車は目的の駅に止まった。駅前に降り立てば、ライヴ会場まで後は歩くだけだ。
風弥はポケットから大事そうにライヴのチケットを取り出した。『花鳥風月』の手書き文字が上部に、場所と今日の日付、そして開始時刻の午後九時という文字が、下部に書かれている。
風弥の周りには、目的地が同じであろう人々が何人か歩いていた。

『花鳥風月』は人気バンドの名前だ。
メンバーは四人。リーダーはドラムの『火鳥元希』。先ほど根本家に来ていたあの男だ。
元希は根本家の斜め向かいにある『火鳥家』の一人息子で、風弥と元希はいわゆる幼馴染というやつである。両家の母親は偶然同い年で、それがキッカケで親しい間柄となった。
二人は互いに一人っ子という事もあり、幼い頃から自然と一緒にいる事が多かった。元希は風弥よりも七つ年上で、二人はまるで本物の兄弟のように育った。
現在、元希は実家を離れ、通っている大学の近所にあるアパートに住んでいるので、会う機会は減ってしまったが、二人は今でも仲が良いのだった。
そして、ベースの『美咲ケン』、シンセサイザーの『野魏朋之』、風弥にとって最も憧れの存在である、ヴォーカルとギターの『五十嵐智隼』、この四人で信じられないような世界がライヴで創り出される。
風弥は『花鳥風月』の熱狂的ファンだった。元希のコネもあり、ほとんどのライヴを見ているし、インディースCDも全部持っている。歌詞も完璧に覚えているので全曲完璧に歌える自信もあった。それくらい風弥は『花鳥風月』の虜となっていた。
風弥は胸を躍らせていた。今日これから、最高のライヴが待っていると確信していた。

線路沿いのテナントビルの地下にある、ライヴハウス『space room』は満員だった。
沢山の人々の熱気がビンビン伝わってくる。風弥は一番前の通路側に立っていたから背中越しにその熱気と興奮を感じていた。
あと十分。観客達は今か今かと待ちわびていた。それは風弥も同じだった。
「・・・風弥・・・風弥!」
『空耳かな・・・』それが最初に感じたことだった。
「風弥・・・・こっちだ!」
その声は空耳ではなかった。確かに誰かが自分を呼んでいる。小さい声だが、風弥には声の出所はすぐにわかった。
通路に顔を向けると、脇にある出入り口の隙間から、私服姿の元希が顔を覗かせていた。
風弥の興奮は一気に冷めた。十分前だというのに、何一つ仕度もしないで元希は一体何をやっているんだ?それにこんな所を、観客の誰かに見つかったら大パニックになる。
「・・・もっ・・・元希!何やってんだよ・・・」
元希に早くステージに戻るように促すため、風弥はあくまでも小声で文句を言いながら出入り口に近づいた。
「よし、来い!」
「ちょっと・・・おいコラ!」
元希は強引に風弥の腕を掴んだ。そして、風弥を扉の奥へと引きずり込んだ。
幸いにもライヴ直前の興奮状態の会場では、周囲の人間は誰一人としてこの事に気づいていなかった。

 

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