第一話 壱

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第一話 壱





夕日は沈み、辺りは暗闇に包まれようとしていた。
少し駅から離れた、この静かな住宅街では、日が暮れるにつれ、窓に段々と明かりが灯っていった。会社勤めの人々の帰宅ラッシュが終り、遅い夕食の談笑が聞えてきた。
その一角にある家から、細心の注意をはらって耳を澄まさないと聞えないほどの、小さな歌声が聞えてくる。その声はまるでオルゴールのようだった。
「風弥―っ、風弥!・・・まったくもう、聴こえてないのかしら」
『歌声の主』の母親―根本美弥は腰に手を当て、大きなため息をついた。
「・・・あっ、大丈夫です。俺行きますよ」
玄関で待ちくたびれていた大柄な若い男は、靴を脱いで玄関マットに足を乗せた。クセのある黒髪に、両耳に樹脂製のピアスをつけた男は二十歳を少し過ぎたくらいに見えた。
「本当にごめんなさいね、いつもいつも・・・。あの子、歌いだすと止まらないのよ。やっぱり血筋なのかしら・・・」
美弥は頬に手を当て、困った顔でもう一度ため息をつく。
「いえいえ、俺はもう慣れっこですから」
男が笑顔を作ると、その穏やかな顔つきは一層柔らかい印象を与える。
癖のある黒髪を揺らし、美弥に軽く頭を下げると、男は慣れた足取りで玄関の目の前にある階段を上り始めた。
二階に辿り着くと、男は廊下の一番奥にある部屋をノックした。 「・・・・・・・・・」
しかし、ドアの奥からの反応は何も感じられない。
男はためらうことなくドアノブを廻し、ドアを開けた。部屋の奥では、一人の少年がベッドの上に座っていた。玄関で出迎えてくれた母親よりも、明るめの茶色い髪に、彼独自のやや青みがかった瞳を持つ小柄な少年は、耳にヘッドホンをしたまま気持ち良さそうに歌い続けていた。この少年こそが『根本風弥』なのだ。
風弥の母方の祖母はフランス人で、若い頃歌手をしていた。風弥の明るめ茶色い髪の毛と僅かに青い瞳、それと音楽への興味は祖母から受け継いだものだ。
ヘッドホンのコードをたどると、ベッドの隣の勉強机に行き着く。勉強机の上には電源の入ったコンポが置かれていた。
風弥は自分の世界に入り込んでいるため、男が部屋に入って来た事に全く気づいていなかった。男はそれをいい事に、手荷物の黒い布鞄をそっと床に置く。そして、勢い良く背後から風弥に飛びかかった。
「わっ!!」
しかも、声のオマケつき。
「うわぁーっ!」
予期せぬ出来事に風弥は悲鳴をあげながら、ベッドから転げ落ちた。男の方は『予想通り』と腹を抱えて大笑いしている。
「ははは、お前も相変わらずひっかかるよな・・・」
この発言からして、どうやら男が風弥を驚かしているのは今に始まった事ではないようだ。
風弥は我に返り、顔を真っ赤にして、自分より大柄な男に飛びかかった。
「何だよ元希!入る時はノックしろって言ってんだろ!」
『元希』それが男の名前だった。
「したぜ。風弥が気づかないだけだって!」
元希は風弥から繰り出される拳の数々を余裕たっぷりにかわしている。
この攻防は暫く続いたが、風弥の体力切れで以外にあっけなく幕を下ろした。
「ちくしょう・・・」
力尽きた風弥は、そのまま床に大の字に寝転がった。しかし、目だけは気迫十分に元希を睨みつけている。
さりげなく風弥の視線をかわし、元希は聴く人のいないコンポの電源を切った。
「・・・もったいないよな」
コンポを目の前に、元希が呟いた。
「・・・いいだろ、別に。付けっぱなしったって、一時間も無駄にしていた訳じゃないんだから・・・」
さっきの事をまだ引きずる風弥は、乱暴な口調で反論した。
「コンポの事じゃない。お前の事だ、風弥・・・」
急に元希の声が変わった。
「なぁ風弥、お前本当に歌やる気ないのか?」
元希は背中越しに風弥に問う。
「お前の歌、昔から聴いてるけどお世辞抜きで上手い。本当だぜ、嘘じゃない」
照れくさそうに、元希は言葉を続ける。
「バンドとかやりたいなら、俺が仲間紹介してやるから・・・」
「何言ってんだよ・・・」
風弥は元希の話をさえぎるように口を開いた。
「俺は歌うの大好きだけど、人の前で歌うのなんか出来ないよ・・・学校の音楽の授業なんか最低だぜ。緊張して、部屋で歌うみたいに歌えないんだ。そんな奴にヴォーカルなんて務まるか?」
風弥は自分がわかっている自分の実力を、残さず語った。
「それに俺、『花鳥風月』の元希の友達って事、すごい自慢にしている。一人のファンとして十分満足している。だから、元希の言葉は嬉しいけど、歌やる気はさらさら無いんだ」
風弥は、元希と同時に自分自身に納得させるように言葉を紡いでいった。元希は同じ質問を何回かしていたが、今回も答えは同じだった。
「・・・わかった。無理強いはしないよ」
・・・風弥はこういう奴なんだ。
元希は何気なく腕の時計に目をやった。
「うわっ、もうこんな時間か!」
時計は元希が当初予定していた、根本家滞在時間をとっくに過ぎていた。風弥との余計な乱闘が主な原因なのは言うまでも無い事だろう。
「風弥、昨日のライヴの感想は今度な!」
元希は鞄を引っ掴み、階段を駆け下りた。下の玄関から『おじゃましました』と元希の声が聞こえた。
「・・・ざまぁみろ!天罰だ!」
風弥は心の中でそう呟いた半面、無事間に合う事を祈った。

 

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