第五話 七

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第五話 七


 

大広間の端では鶴祗が落ち着かない様子で、舞台を見つめていた。
その脇には四十代前半と思われる男女が立っている。彼こそが、ケンと鶴祗の叔父にあたり旅館『はなかがり』の館主『美咲柔造』である。その傍らにいるのが妻の『美咲笹穂』なのだ。
「久しぶりよね。ケンちゃんのお琴聴けるなんて叔母さん嬉しい」
のんびりとした性格の笹穂はえらくご機嫌である。それとは対象的に厳格な柔造は眉間にしわを寄せていた。
「鶴祗・・・」
「何ですか?叔父さん・・・」
柔造は僅かに口を開き何かを言いかけたが、思い直しこう言った。
「・・・何でもない。終ったら話そう」
「・・・はい・・・」
鶴祗が静かに頷く。
騒がしかった生徒達が、一斉に舞台の方を向く。それに合わせて鶴祗達も視線を舞台に向けた。
舞台袖から筝を担いだケンが姿を現した。続いて、舞妓姿の風弥も歩み出る。生徒達は明らかに動揺し、広間は騒がしくなっていった。
「えー皆々様。この度は旅館『はなかがり』へ、ようこそおこしやす!」
筝を舞台中央に置き準備が終ると、ぎこちない京都弁でケンが進行を始める。全て打ち合わせ通りだった。
ケンの京都弁がおかしくて、風弥は噴出しそうになったが、なんとか堪えた。右隣に立ったまま一切口を開かない、喋れば悠介や恭子など親しい人間にばれる恐れがあるからだ。
ざわめきがぴたりと止み、興味津々な視線が注がれた。
風弥は目だけを動かして、悠介達を探す。幸いにも彼らは、舞台からかなり離れた場所に陣取っていた。あの位置ならばれないだろう、と風弥は思った。
「これから芸妓の姉はん達の歌や踊りが待ってはりますが、その前に・・・」
ケンは筝の前に斜めに座ると、象牙製の爪をはめた指で、手前の巾と呼ばれる弦から、奥の一の弦までをかき鳴らした。調弦は寸分の狂いも無かった。筝独特の乾いた音色が、静かな大広間に広がった。
普段なじみの無い楽器だけに、これだけの動作でも生徒達から歓声が上がり、僅かながら拍手も出た。
「うちらの前座聴いておくれやす」
ケンは言い終わると同時に風弥に目で合図をした。風弥が小さく頷くと、筝が前奏を奏で始めた。ケンの指は滑らかに十三本の弦の上を移動し旋律を奏でていた。観客席から、「この曲知ってる」と言う言葉が風弥の耳に入る。
風弥は緊張を解くために、紅がのった唇を軽く開き、息を吸った。そして精神を集中させて唄いだした。

  春高楼の 花の宴 めぐるさかずき かげさして
  千代の松がえ わけいでし むかしの光 いまいずこ

静寂の中に響く、華麗な筝の音色と透き通った美しい歌声による『荒城の月』。その場にいた誰もが息を飲んだ。

  秋 陣営の 霜の色 鳴きゆく雁の 数みせて
  植うる剣に 照りそいし むかしの光 いまいずこ

  今 荒城の よわの月 かわらぬ光 たがためぞ
  垣に残るは ただかつら 松に歌うは ただあらし

  天上影は かわらねど 栄枯はうつる 世の姿
  写さんとてか 今もなお ああ荒城の よわの月

風弥は即興の暗譜ながら、見事に歌い切った。最後にケンの筝が彩りを添える。曲が終ると同時に生徒、教師、従業員までが舞台の二人に大きな拍手を送った。一礼し、ケンは顔を上げる。
「最後にもう一曲だけ、お聞きください・・・」
ケンの声が緊張と安心感で震えていた。
風弥は、こんなケンを初めて見た。普段のケンはステージの上でも堂々としていて、緊張とは全くと言ってもいい程無縁に見えた。
ケンは筝の音色を変えるため、竜甲という筝の胴体部分に乗っている、小さな柱の調整に入った。筝は出せる音の数が限られているので、殆どの場合は一曲ごとに柱の位置をずらして音階を替えなければならない。
『荒城の月』は基本音階である『平調子』から、四弦を一音上げた音階なのだが、次の曲は『乃木調子』と名の付いた音階をベースにしているので、四、九、斗の柱を半音、六の柱を一音半高く設定しなおす必要があった。
柱の移動は、間違えずに手早くする必要がある。
しかし、ケンは極度の緊張で手が震えていた。
落ち着け、落ち着け。と、ケンは何度も心の中で呟いたが、肝心の手は全く言う事をきかず、ケンが一番恐れていた事態が起こってしまった。
柱が大きな音を立てて倒れたのだ。音は竜甲を伝い、さらに大広間全体に反響した。
緊張の糸が切れ、静かだった大広間は突然ざわめき始める。
ケンは焦っていた。いつもならこんな単純なミスなんてしない、普段は感じないプレッシャーが全身に圧し掛かってきた。ケンは唇を噛んだ。しっかりしろと自分に言い聞かせる。これからが一番大事なのだ。
ケンに声をかけようとしたが、風弥は一瞬戸惑った。今地声を聞かせたらばれる。辛かったが風弥はぐっと堪え、ケンを待った。
しっかりしろ!ケンは深く息を吸い、大きく吐き出した。その時ふと誰かの刺さるような視線を感じた。
広間の方に顔をあげると、壁際に立つ柔造が、ケンを真っ直ぐ見据えている。
二人の視線が交わったのは数秒程度だったが、ケンには十分な時間だった。
風弥には突然ケンの表情が笑顔に戻ったように感じた。

そして二曲目―最後の曲に取りかかった。


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