第五話 八

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第五話 八


 


  兎追いし あの山 小鮒つりし かの川
  夢は今も めぐりて 忘れがたき ふるさと

柔造は目を閉じて腕を組み、黙って耳を傾けていた。その傍らでは笹穂がうっとりした様子で聞き入っている。
鶴祗も柔らかな笑顔を見せ、ケンの筝と風弥の歌に魅せられていた。
「・・・二番目の『ふるさと』か・・・」
微かな声で鶴祗が呟く。ケンの言いたい事は音楽を通して三人に十分伝わっていた。

  こころざしを はたして いつの日にか 帰らん 
  山は青き ふるさと 水は清き ふるさと 

・・・演奏が終わり、二人は惜しまれつつも舞台を後にする。いよいよ本番の出し物と言う所で、突然柔造がその場を離れた。しかし、鶴祗はあえて後を追わなかった。

柔造が控え室の襖を開けると、ケンがあぐらをかいたまま一人で筝を片付けていた。芸妓達はみんな舞台に出払っている。
突然の来訪者にケンは慌てて正座をする。柔造は黙って襖を閉め、ケンに近づいた。
「叔父さん・・・」
ケンは言葉が見つからなかった。戸惑っているケンの頭を柔造が軽く撫でた。
「・・・よかったぞ」
柔造が微笑んだ。しかし、その笑顔にはどこか寂しげな影もつきまとっていた。
「歌っていた子にも伝えてくれ。じゃあまた」
そう言い残して柔造は控え室を去っていった。
ケンは僅かに頬を染めながら、呆然と口を開け固まっていた。
「ケン」
柔造と立ち代るように、元希と磨雪が控え室に入ってきた。ケンは我に返り、元希達を出迎える。
「今の人は?」
元希は柔造の後ろ姿を見送りながら、ケンに聞いた。
「・・・俺の叔父さん」
ケンは嬉しそうに笑ってみせた。
「何か良い事、言われたのか?」
「・・・まあな」
柔造とは中学卒業以来会っていなかったから、会話を交わしたのは実に六年ぶりだった。普段からあまり口数の多くない柔造の言葉は、ケンの胸の中でいつまでも繰り返されていた。
「あれ?そういえば風弥の姿が見えないけど」
元希はがらんとした控え室を見回した。
「チビ助なら脱皮して風呂に直行したぜ」
ケンは後ろに脱捨てられた真紅の振袖を指さした。見事なまでに帯から、鬘まで一式が畳の上に放り投げてある。
「よっぽど嫌だったんだろうな・・・」
風弥の姿を思い出してケンは楽しそうに呟いた。元希もつられて笑う。磨雪が、しわにならないように着物をたたみ終えると、三人は筝の道具を抱えて控え室を後にした。

風弥は別館の露天風呂にいた。豪快に桶で湯をかぶり白粉を洗い流すと、湯気のたつ檜の浴槽に、肩まで浸かった。
そして、今日あった様々な出来事を思い出した。本当に長い一日だった。
「・・・ケンさん、『花鳥風月』辞めないよな・・・」
漆黒に浮ぶ三日月と星空を見上げながら、風弥は一人呟いた。何とも情緒溢れる風景だというのに、状況をわきまえずに風弥の腹が勢いよく鳴る。
「・・・そういえばごたごたしていて、夕飯食べてなかった・・・」
風弥は恥ずかしそうに、湯船の中の腹をさする。
「チビ助ー!」
脱衣場からケンの声がした。
「ケンさん!」
風弥は湯船に浸かったまま脱衣場の近くに足を進める。
「とっとと上がって来い。夜食出来たって鶴祗さんが呼んでるぞ!」
今度は元希の声だった。
「暖かい風呂はいつでも入れるけど、温かいメシは今しか食えないぜ」
ケンが笑い声交じりではやしたてる。
「・・・今行くよ!」
風弥は不機嫌を装った口調で返答し、湯船から上がった。しかし、顔は笑っていた。

新緑を揺らしている爽やかな風を感じながら、風弥はみんなのもとに急いだのだった。


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